堺市の住居表示の歴史

コロナ禍がまだ終息しないこの冬、毎日報道される感染者数は日に日に増え続けていますが、北京オリンピックは予定通り開幕しました。この先オミクロン株どうなるのかしら?と心配な日々です。

今年から司法書士法人やまぎわに勤務し事務作業等担当しています。司法書士業務自体未経験なので、まず思いつくのは住宅購入時に土地建物を担保にして銀行からお金を借りる際の不動産登記です。勤務してみて分かったのですが商業登記、供託、裁判事務業務手等…この他にもまだまだありますが…。 所謂、人生の節目において重要な役割を担っているのが司法書士だという事が分かりました。

勤務初日、司法書士の先生に同行し公証役場と法務局へ行きました。法務局は何度か行ったことがありますが、公証役場は初めてで何をするところ?の疑問だらけでした。書面がこの日に作成された事を証明してもらうところでした。←補足必要かもしれませんがこんな感じ。遺言作成とか、私文書や会社設立の定款とかを認証してもらう場所だと教えていただきました。知らない事ばかりです。(汗)

ある日、会社設立されるお客様の書類を作成している際、大阪府堺市の住居表示は丁目の目がなく丁だけだと教えてもらいました。なんでだろう…?と疑問になりちょっとググってみました。

堺市(美原区域以外)○○丁目→○○丁と表示する件は、江戸時代の名残から通り名で住所を表しているからとの事でした。

元和元年1615年「大坂夏の陣」で堺の町が全焼し、徳川家康により「元和の町割り」が始まりました。南北の大道筋、東西の大小路通として碁盤の目状に町割りされ、大道筋に面した町名と南北の縦筋の通り名を合成させ通称としたそうです。

明治時代に町組みという再編をし、南北の縦筋の通り名を東1丁、西1丁、西2丁と町と同格で丁を使い大道筋に面した町名はそのまま使われたので○○町東1丁と称されたそうです。

本来の丁目は細分化する意味を持ちますが、本来とは異なり丁は町と同格の意味を持つという訳でした。 ナルホド!納得!

余談ですが、堺市と同様に通り名で住所を表すといえば京都市です。

堺市は南北の道に通り名が付いてましたが、京都は東西の道にも通り名があります。まず、家が面している通り名を先に書くのが基本です。後ろに書いた通り名の最後に上ルは北へ、下ルは南へ、東入ル、西入ルを付けます。例えば、四条烏丸東入ルは、四条通りに面していて烏丸通りから東に入るので、目的地はすぐに特定できます。

こちらも余談ですが、堺市のような町割りについて「ブラタモリ」という番組で大阪市内の町割りを紹介していたのを見たことがあります。堺市の「元和の町割り」よりも以前の「大阪夏の陣」で敗れた豊臣秀吉が天下をとっていた時代です。

秀吉は通りで町を区切らず通りを挟んだ両側が同じ町になるよう、両側町というお向かいさん同士が同じ町になる町割りをしました。そうすれば安心して商売に取り組めるからだということでした。江戸時代の大阪は商人が目立った町だったらしく町割りがいかに大切かということも紹介されてました。

これまで住居表示について丁目、丁、町…気にかけたことのない住所のほんの一部でした。調べると壮大な歴史が隠れていて今も引き継がれていることに重みを感じました。

この先、堺市のお客様の住所を入力する度に、徳川家康「元和の町割り」を思い出すのでしょう。

司法書士事務所でのお仕事はまだまだ入り口ですが、遣り甲斐があり大変勉強になることが多いです。同時に大変無知な自分にも気づいています。(汗)

今回は住居表示の事を書いてみました。

いつか堺市に行く時、町が違って見えるだろうと思いました。その日が楽しみです。

〒531-0072 大阪市北区豊崎三丁目4番14号ショーレイビル601 司法書士法人やまぎわ

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